emergent
「季節が春でよかったですね」
「季節が春でよかったです」
女性との麗らかなデートにおける会話はこうありたいものだが、私たちが今いるのは照明も空調も停止した小田急線の車両内である。
「夏だったら汗がバレないようにしなきゃいけないですし、冬だったら結露で窓に頭をもたれ掛けるのも憚られますしね」
「そこは暑さや寒さで死んじゃいそうになる、くらいの柔らかい表現でよかったんじゃないですかね」
「女性は容姿が命ですので」
「現実は厳しいですね」
「現実は厳しいのです」
乗客の誰かがネットニュースで見たのか「脱線事故だって」と話しているのが聞こえてきた。
つられて鉄道会社のホームページを見てみると、車庫から回送車が出庫した際、脱線し架線が切れてしまったため近辺を走っていたこの車両も停電したとのことだった。
車両内はざわついていて、どこからともなく文句の声も上がった。
事故の経緯と、順次駅まで線路を歩くよう係員が誘導するといった旨のアナウンスが入る。
「なかなか時間がかかりそうですね」
「私、電車の事故にはじめて遭遇したんですけど、こういうときって誰かが駅員に詰め寄ったりしてそれを見た乗客たちに集団心理が働いて無政府状態になっていくんですよね」
「で、誰かが窓から脱走して真っ先にやられちゃうんですよね」
「何にやられちゃうんですか?」
「ええと、触手ですかね」
「俗っぽいですよ、それは」
初対面の女性とは思えないほどに邪推もフィクションも転がってしまう会話に、自分でも不思議な心地良さを覚えていた。
数分前に遡る。
突然車両内の照明と電光掲示板が消え、ゆっくりと失速し停車した。
初めは緊急停車ということに気づかず、次の駅に着いたのかとも思ったが、窓の外に駅舎らしきものは見当たらなかった。
イヤフォンを外すと想像以上に車両内は静かで、自分だけが違和感を抱いているのかと錯覚した。
簡単な謝罪と、もう少々そのままでお待ち下さいというアナウンスが入り詳細な説明がなかったため、乗客たちは窓の外を眺めどよめき始めた。
私は特段この後の予定が差し迫っているわけではなかったので焦りは感じなかったが、乗客の中には仕事中であったり、次の約束に間に合わない恐れのある人もいたことだろう。
言葉にならない苛立ちが車両内に蔓延していた。
どうしたものかと思っていると、隣の席に座る女性から声をかけられた。
「いま、何時ですか…?携帯電話の充電が切れてて、腕時計も家に忘れてしまったもので…」
拙い表現だが、いかにもキャリアウーマンといった容姿の女性であったため緊張で正常に発声できるか一抹の不安を抱いた。
「えっと、昼の2時過ぎですね」
「ありがとうございます」
「やっぱり、急いでるとこういう事態は困りますよね」
「いや、私は急いでるわけじゃないんですけど…」
「けど?」
「急いでなくても、時刻が分からない状況ほど時刻って気になりませんか?」
「そうですかね…?まぁ、そういうときもあるかもしれません」
「いや、それはいま時刻が分かる立場にあるから言えるんですよ。苦しいくらいお腹いっぱいのときに空腹時の感情を思い出せないのと同じです」
「なるほど」
大変申し訳なかったが、見た目とは裏腹に変な人に絡まれてしまったな…と顔に出ない程度に狼狽した。
後になってこのときのことを彼女は、私とただ話したいだけだったと白状するが今はまだ知る由も無いことであった。
現在に戻る。
「光化学スモッグってあったじゃないですか」
自ら発したその響きにとてつもない懐かしさを覚えていた。
「ありましたね。というより今もきっとあるんでしょうけど」
「僕が通っていた小学校は、あれが発生すると体育とか部活がなくなって集団下校になったんです。体調不良を訴える人や、部活が休みになって不満を持つ人には申し訳なかったんですけど、正直僕は結構ワクワクしてました。別に帰れるのが嬉しいとかではなくて。いま、何故かそのときの気持ちを思い出しまして」
「分かる気がしますね」
不謹慎だと分かっていながらも自分が何も実害を被っていないのをいいことに、私はこの動かない電車という非日常的シチュエーションを楽しんでいた。
「私は客観的に見てしまうんですよね。普段の通勤電車では何も考えられないんですけど、少し長旅のときとか、乗ったことのないバスで一番後ろに座ったときとかって他の乗客の背景を妄想してしまう気がします。いまもそれに近いイレギュラーな感じ、あります」
「こうして隣に乗り合わせた人と喋るのもイレギュラーな感じ、ありますね」
蕾程度に膨らんだ会話が弾けんとしていたその瞬間に車両連結部の通路ドアが開き、車掌らしき男が現れた。謝罪と事の顛末と避難指示が滑らかに発せられた。それは、ここに到達するまでに同じ説明を何度もしたのだろうことが伺える作業的なものであった。
不満の声を漏らしていた乗客たちはさながら諦念の亡霊然と荷物をまとめ立ち上がっていた。
一方で私は「ああ、この人ともう少し話していたいな」などと男子特有の阿呆な思考回路の循環のみで、四肢を動かすカラクリと成り果てていた。
車掌らしき男の指示で、私たちは駅までの道のりを線路伝いに歩くという非現実的な体験をしていた。
「私凡庸な表現しかできないんですけど、何かスタンドバイミーみたいですよね。映画の」
「確かに滅茶苦茶みんな傍にいますね…」
沈黙の中、自らの凡庸以下の返答に後悔している間に気付けば駅まで歩き着いてしまっていた。
「僕は電車が動くのを待たないといけないんですけど、ここからはどうされるんですか」
「幸い私は歩いて帰れるんです」
「そうでしたか。それは良かった」
物語であればもうエンドロールが流れてもおかしくない台詞の応酬が為される別れ際、思いついたように私はペンを取り、財布からレシートを取り出し、裏面に電話番号を殴り書きして彼女に差し出した。
「あの、今日楽しかったです。これも何かの縁なので、今度また電車に乗ってどこかご一緒できませんか」
「何でレシートなんですか」
吹き出すように笑う彼女を見て緊張が飛んだ。
「だって携帯電話の充電が切れてるって…」
「そうでした。ええと、充電器持ってますか。連絡先、交換しましょう」
照れ臭そうに彼女は携帯電話を取り出し、私に差し出した。慌てて充電器に繋ぐ私を他所に彼女はレシートをしげしげと眺める。
「いかにも不摂生な男の人っぽい買い物ですね」
「お恥ずかしい」
「じゃあ、今からどこか喫茶店にでも行きましょうか」
「えっ帰らなくていいんですか」
彼女は少し考える仕草をしたあと、思い出すように小さく笑った。
「だって、光化学スモッグ、出てないですよ?」
動き出した電車が私たちの前に流れ着いていた。
overtime
原因はレシートだった。
「私は飴の包み紙だと思いますね」という松川さんの予想は外れ、皺だらけになったそれがコンベアの間から取り出された。
待たせていたお客さんに経緯を説明し通帳を返却する。
30代前半くらいだろうか、仕事終わりに立ち寄ったというような様相でいるその女性客は「そっちは捨てておいてもらって結構です」と私の手に握られた二つ折りのレシートを指差し、ばつが悪そうにそそくさと帰っていった。
ATMの裏に戻り復旧作業に取り掛かる。
「みんな想像力が足りないんですよ」
慣れた手つきで松川さんは開いたATM裏側の現金処理部にフッと息を吹きかけ扉を閉じた。
「注意力じゃなくて?」
「うっかりは仕方ないじゃないですか。誤ってレシートが挟まったままの通帳をATMに突っ込んでしまう気持ちは分からなくはないです」
分からなくはない。私も以前コンビニのゴミ箱に誤って自転車の鍵をレシートと一緒に捨ててしまい、店員さんに捜索してもらった経験がある。そうか、レシートはうっかりの温床なのか。
松川さんの演説は続く。
「でもですよ、私たち銀行員だって定時で帰りたい会社員じゃないですか。で、さぁ帰りますかのタイミングでATM障害発生のブザーが鳴ったらそこで予定外の残業が始まるわけですよ。それは仕事だからいいんですけど、お客さんにそこまでの思慮が及べば、『ありがとう』とか『すいません』とか多少の労いが感じられる言葉が聞けてもいいような気がするんですよね」
「まぁ私たちだって世の中に溢れる当たり前のことにちゃんと感謝してること少ないと思うし」
私だって定時で帰りたい銀行員だ。レシートを雑紙用のゴミ箱に投げ入れる。
一瞬松川さんの視線が固まる。
「先輩、それをそっちに捨てると個人情報の漏洩になりますよ」
「ただのレシートなのに?」
個人情報を多く取り扱う職場では雑紙用のゴミ箱とは別に、後にシュレッダーにかける重要用紙を保管するゴミ箱が設けてある場合が多い。
「裏に何か数字が書いてあります」
私の捨てたレシートを松川さんが拾い上げる。
裏に書いてあるのはどうやら携帯電話の番号らしかった。
「そういうことですよね」
「どういうこと?」
「つまり誰か男性があのお客さんに連絡先を教えようとしたってことですよきっと」
「レシートで?」
先刻の憤りはどこへ行ったのか今度は楽しげに、そしてどこか冷静に推理を始めようと松川さんは斜め上を睨んでいる。
監視カメラを気にしているのかとも思ったが本当にただ思案しているだけのようであった。
「あのお客さんは販売員なんですよ。そこで買い物をした客の男性が、精算中にあのお客さんに一目惚れして連絡先を渡したんですよ」
「どっちがお客さんか分からなくなる見解だね」
私の愚見は当然のように無視された。
「でもこれよく見るとコンビニのレシートですね。缶ビールとカップ焼きそばとコミックって書いてあります。あのお客さんコンビニで働いてるんですかね」
「それはいささか想像力に欠けるんじゃないかな」
「いささか」
「失礼かもしれないけど、あんないかにもバリバリ仕事してますって風貌の女性だったら何かのっぴきならない事情でもない限りコンビニでは働かないんじゃないかな」
「のっぴきならない」
松川さんは私の台詞から形容動詞と助動詞だけを抜粋し嘲笑を浮かべた。
「先輩って昔の人みたいな言葉使いますよね」
「馬鹿にしてる?」
「尊敬してますよ」
レシートの表と裏をペラペラと見返した後、ぶっきらぼうに私に手渡す松川さんのその返答に尊敬の意が表されているとは思えなかった。
「まぁでもこのレシートの主は妙齢の男性の可能性が高いよね」
「妙齢の」
「だってビール買ってるから未成年じゃないだろうし、カップ焼きそば買うくらいだからそんなに年老いた人でもないだろうし」
松川さんに指摘した割に自分の想像力だって全然大したことないな、と少し虚しくなる。
「しかもコミック1冊619円って絶対あのカバーのついてないコンビニコミックですよね。時間潰しに読むような」
「美味しんぼとかにありがちだよね」
「何ですかそれ?」
いまの愚見は無視してくれてもよかったのではないか。
「まぁきっと漫画への愛が感じられない妙齢の独身男ですよ」
「手厳しいね」
「先輩、電話かけてみてくださいよ」
「えっ嫌だよ。だって個人情報の不正取得だよ?」
「そこですか」
「まずはそこだよ」
「でも妙齢の男性も待ってるかもしれないじゃないですか」
「妙齢の男性が待ってるのはさっきのお客さんだよ」
「でも私だったらATMにレシート詰まらせた上に礼も言わずにゴミ捨てさせて帰る女性は嫌ですね」
「そんなこと言ったら私だってコンビニで美味しんぼを買うような男性は趣味じゃないよ」
ATMの裏というコンプライアンスの現場であることを思い出し、少し声のトーンを下げる。
松川さんもハッとする。
「でも妙齢の大人ともなると、こうでもしない限り運命的な出会いなんて無いんじゃないですか」
「いまの発言、妙齢サイドの人間としては聞き捨てならないかな」
「失礼しましたー」
肩を上げて謝る松川さんにはまたしても尊敬の意は感じられなかったが、どこか憎めない。
「結局あのお客さんも電話番号が書いてあるレシートだってピンと来ないままに捨てたんだから、その程度の男性だったってことだよきっと」
「そもそもゴミと間違えられるようなものに連絡先書いて渡すなんてもはや自爆ですよね」
私が雑紙用のゴミ箱にレシートを投げ入れると、松川さんは着地までの行方を目で追った。
「個人情報の漏洩ですね」
「個人情報の自爆だよ」
ATM裏のドアの鍵を閉め、念のため表に人がいないか確認をする。
「それにもしかしたら本当は全く見当違いなレシートなのかもしれないし。結局これくらいしか思いつかない私たちの想像力もその程度だってことだよ」
「それはいささかのっぴきならないですね」
「馬鹿にしてる?」
「フフッ尊敬してますよ」